Thursday, February 26, 2015

Two Lenten Images: Flood and Desert - Cleansing Water and Purification Heat

This is based on my lecture note from the Sunday scripture study I teach....

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What is your image for Lent?  Water or dry desert?

Well, I was just tempted to spell “desert” , “dessert”, effected by my own carnal desire, on which I still need to work on my own spiritual discipline.

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Most people associate Lent to desert. In particular, they image the desert where Jesus fasted for 40 days and 40 nights before he started his public ministry after his baptism in the Jordan River. This image can be drawn from the Gospel reading for the First Sunday of Lent Year B, Mark 1:12-15.

But, given that the great flood in the days of Noah is mentioned both in the first reading, Genesis 9:8-15 and the second reading, 1 Peter 3:18-22, some people may reflect Lent in light of the flood.  The flood mentioned in the first reading and the second reading was caused by the intense rains poured relentlessly for 40 days (Genesis 8:12).  Thus, the diluvial story of Noah’s Ark (vessel), Genesis 6:9-9;17, can be related to Lent.

This year, Year B, the scripture readings for the First Sunday of Lent (Genesis 9:8-15;1 Peter 3:18-22;Mark 1:12-15) present two contrasting images for Lent to set a tone for this Lenten journey. 

The first reading, Genesis 9:8-15, first reminds us that the flood was God’s act of judgement against the wicked. Then, this scripture narrative assures that those who are righteous in the eyes of God, such as Noah, are saved from the judgement, as God establishes a covenant with them.  In fact, this sets a pattern throughout the Old Testament and the New Testament, all the way to Revelation. The prophetic books in the Old Testament make this pattern very clear in the form of the deuteronomic cycle.

In fact, in making a theological reflection on Lenten meaning, this pattern set in the diluvial narrative (Genesis 6-9): God cleanses the world of sins by sending the judgement, such as a flood, to punish the wicked but to save the righteous.  God further makes a new covenant with those who have been saved from the judgement and awards them with prosperity, as done to Noah.

The Gospel reading, Mark 1:12-15, succinctly tells that the Spirit took Jesus to the desert and stayed there for 40 days, ministered by angels, while being there among wild beasts and being tested by Satan’s temptations. But, Matthew 4 and Luke 4 give more detailed accounts on Jesus’ 40-day stay in the desert by describing that Jesus fasted in the desert for 40 days and that Satan came to tempt Jesus when he was very hungry as he was about to complete the fasting.

The desert is a place of spiritual cleansing, as the water of the Sacrament of Baptism does.
In the first reading, the flood from which Noah was saved cleansed the world. In a way, this fact serves as a prototype of baptism that John was offering in the Jordan River to prepare the coming of Christ, cleansing sinners with the water. And, Jesus himself came and was baptized, though he had no sin.

Following his baptism, as the Gospel reading tells, the Spirit took Jesus to the desert. In a way, this was to complete and fortify the cleansing effect of his baptism by subjecting  Jesus to the purification and fortification effects of the desert.

Baptism cleanses. But, it is more of external cleansing. To complete the total cleansing and purification, both externally and internally, the water cleansing has to be followed and complimented by the desert cleaning, which focuses more on internal cleansing and purity.

Whether your primary image for Lent is the desert of the flood, it is about spiritual cleansing, as both the water, associated with the flood and baptism, and arid dry heat, associated with the desert, purify our faith and the world.  Whether the water or desert heart, those who endure with faith, as described by Paul in 2 Timothy 4, can not only survive all the challenges and overcome temptations, as Noah did with the flood and as Jesus did in the desert. It is because this process is not just cleansing and purification but also fortification. As long as this process of led by the Spirit, as indicated in Galatians 5:22, fortitude is a result of enduring the water cleansing, perfected and fortified with the desert heart cleansing and fortification.

What we can learn from the First Sunday of Lent scriptures is that we need both water (flood, baptism) and desert heat to make our Lenten transformative journey more meaningful. Not whether a flood image or a desert image.


Let us further proceed on this Lenten journey with both water and desert to be cleansed, purified, and fortified, both externally and internally. This is our Lenten transformation toward Easter. 

四旬節と東日本大震災記念日: 四旬節における修行と、大震災被災者の苦しみや悲しみ、に見出す意義



ここシカゴではまた雪です。空は、相変わらず鉛色です。晴れ間が見えても、すぐに雲に埋められます。青空を鉛色の雲が埋め尽くすように、青いミシガン湖の水面も岸から見る限り殆ど一面、浮いている流氷で埋め尽くされています。岸辺には所々に巌のような氷の塊があります。もうすぐ3月だといえど、最高気温でも氷点下は当たり前。今日は日中最高気温でもマイナス10度。今夜はマイナス15度ぐらいまで冷え込みます。

こうした北国の厳しい寒さの中で四旬節の悔い改めと清めをする修行は、楽しみにしている復活祭に向けて続行中です。仏教的に言えば、四旬節の修行とは、完全な世界である彼岸へ渡れるような波羅蜜多に精進するようなもので、先ず、自我を制するというより、征することで欲望などの煩悩に打ち勝ち、つまり、罪につながる誘惑に打ち勝ち、自己を更に律し、強靭にしていきます。その為なら、この修行、波羅蜜多、の苦しみには耐えていけます。この苦しみの先には、キリスト教徒にとって彼岸の境地のようなキリストの復活の喜びと楽しみがあるからこそ、どんなに寒くても、空が鉛色でも、長い冬でも、イエスの砂漠での断食修行と十字架での断末魔の苦しみを想い、四旬節の修行を続行していけるのです。そして、釈迦も断食修行を何度も行い、その末に、断食の苦しみを超越した所に開眼し、仏法の宝に開眼し、救いへの悟りの道を開かれた。こうしたことも、想いながら四旬節の波羅蜜多に精進すると、復活したキリストという最高の仏、三位一体の神の中の完全な人間、が見えてくる。

四旬節、苦しみ、と言えば、東日本大震災が起こった時も四旬節の最中でした。そして、当時の被災地の空も鉛色でした。今年も四旬節が進む中、もうすぐ東日本大震災から4年目の記念日を迎えます。

そこで、記念日を前にして、臨床パストラル心理と宗教教育の一日本人専門家としての雑感を記してみました。

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東日本大震災により被災した東北地方は、私が住んでいるシカゴのように寒く、4年前の大震災の時も、鉛色の冬空の寒い日でした。

大きな町では道路などが素早く復旧され、救助捜索活動や、仮設住宅などで避難生活をする被災者への支援物資の輸送活動の効率化を図りました。しかし、事故原発近隣地帯は高レベル放射能汚染の為に人が住めなくなり、また、過疎地では今でも充分に復興しておらず、産業の立ち直れず、また、近くの町への交通手段も復興していないので、こうした過疎地の住民は村を捨て町へ出て行き、更なる過疎化が進んでいます。

4年目とはいえ、被災者の苦しみ、悲しみ、は続いています。今でも現在進行形です。
被災者の苦しみや悲しみは、眼に見えない形で私達が想像する以上に長く続くということは、20年目を迎えた今でも、かなり多くの阪神淡路大震災による被災者の方々がまだ様々な心と魂に受けた傷による影響を受けながら生きているという現実からも思い知らされます。よって、4年前の東日本大震災で被災された方々の苦しみや悲しみも、これからも長い間続く可能性があるということを示しています。

そうだからといって、悲観的になる人もいるでしょう。しかし、こうした現実や臨床心理的な事実にも拘らず、神、あるいは、何かを信じ、つまり、信仰心を持ち、それによる希望を維持しながら、苦しみや悲しみがどんなに辛く、長く続こうと、ただ耐え忍ぶのではなく、耐え忍びながら新しい意義を見出し、更に人間として大きく成長し、強靭性と感受性を高めていく人もいます。後者のパターンには、Post-Traumatic Growth(PTG)という、トラウマ経験をバネにして強くなり得るという臨床心理の大切な概念が見受けられます。
奇しくも、大震災記念日はカトリックの復活祭に向けての懺悔と清めによる信仰の強靭化の期間、四旬節、の最中でもあります。寧ろ、偶然というか、実は、その背景には何か深い意義があるのだと思います。

悔い改めと言えば、大震災直後、アメリカのプロテスタント原理主義者、グレンベック、はあのような大震災が日本を襲ったのは、日本人の殆どがキリストを信じず、悔い改めない罪深き人だから神が罰を与えたのだ、といった内容の屁理屈を言い、議論を醸し出しました。つまり、あの大震災を、神による天罰と、間違った聖書の解釈によって、そういった誤った結論を導き出した人達がいました。

このように、聖書を用いて、被災者の苦しみや悲しみは罪深さの為の天罰だといったことを言われると、回復に対し、より一層悲観的になり、キリスト教などの宗教に対する苛立ちを覚えます。

日本人カトリックパストラル心理の臨床専門、それに、宗教教育の専門家として、こうしたことに対する聖書のあり方についての誤解と正し、グレンベックのような心無き一部のクリスチャンが犯した被災者の心や魂を痛めつけるという罪を悔い改める為にも、大震災から4年目の四旬節のこの時に、私なりに、正しい聖書の理解とそれに基付く災害やそれによる苦しみについての正統なクリスチャンのありかたについて述べさせていただきたいと思います。

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聖書に出てくる災害は、天災であれ人災であれ、それらは神の民の敵、神に背き続け悔い改めない罪人やそうした人達の国に対する天罰であるといった主旨で記されています。だから、原理主義的に、通り一遍にしか聖書が読めない、スピリチュアル的に”盲目”な、グレンベックのような人は、どこかで災害があると被害者や被災者が苦しむのは彼らが罪深き人であり悔い改めなかったからだと主張します。

しかし、聖書には、多くの罪無き人達も苦しみ、死んだ、ということを記しています。例えば、イエスが生まれてからすぐに、ヘロデ王は彼がローマ総督の監督の下で治めるローマ帝国の属国、ユダの国の男の赤ちゃんを全て虐殺するというヒトラーのようなことをしました。この事件によって殺された赤ちゃん達にいったいどのような罪があったのでしょうか?

つまり、聖書にも、何の罪もない人が何かの事情、仏教でいえば、縁起、により災難を被ることもあるということが示されているのです。それが神の計らいだとは聖書のどこにも書いていませんし、また、ヨハネによる福音書、9:1-5にあるように、イエスは災難を被っている人はその人自身、あるいは、その人の親が何かの罪を犯し神の怒りをかったからだという弟子の思い込みを明確に正し、そうではないことを教え、寧ろ、こうした災難に苦しむ人へ神の恵みの力が働くように信仰を持つ者は精進しなければならないことを強調しています。よって、グレンベックのような原理主義者は、こうした聖書のとても大切なイエスの教えが分かっておらず、イエスに正される前の弟子達の間違った概念で、被災者が悲観的になる判断をしているだけです。

また、聖書においてとても大切なことは、イエスは罪無き潔白な人物でもある為に、裁かれるべき罪人達を愛するが故、彼らの代わりとなって、贖罪の犠牲になりました。それを象徴するのが十字架です。これは、イエスが、自分や、罪深くても民を愛する父なる神との揺ぎ無い愛着関係を維持しているが故、父なる神の慈愛そのものとして、罪人の身代わりとなったというわけです。そして、イエスの続き、ペテロやパウロの弟子達も、神からの天罰としてではなく、神への堅い信仰故に苦しみぬいたあげく殉教しました。
仏教で教えるように、災害などは私達には到底理解できないような不可思議な縁起の中で起こり、神であれ仏であれ、何かを信じる人は、ヨブ記から学べるようにそうした災難がなぜ起こったかについて不毛な議論をして時間と精神を浪費したり、宗教原理主義者のように”天罰”めいた屁理屈をつけて結論付けたりしません。それよりも、災難が降りかかってきた時には、神であれ仏であれ、その慈愛の恵みを信じ、神や仏のように苦しんでいる人や悲しんでいる人に共感することでこうした人への癒しと希望へとつながるように努力します。それが、正しく健全な信仰心をもった人の対応です。

また、苦しんでいる人への共感やこうした対応がもたらす苦しみは、イエスやその弟子達が分かち合った殉教の苦しみのように、自分が犠牲になることは他の人を救い癒しと希望を与える糧となる為だと信じ、こうした苦しみに意義を見出します。これは、自我による自己保存欲求を、こうした信仰心的な慈愛により超越し、愛する誰かを守ろうとしたり、救助しようとして、犠牲となり殉死した人たちの心にも見られましょう。

これらのことから、聖書を正しく理解する正統派のクリスチャンにとって、災害などで苦しむ人達は必ずしも悔い改めない罪深き人たちでなく、そうした災害は神からの天罰でもないということが分かっています。そして、被害を受け被災し、苦しみと悲しみの中にある人達に、神はその慈悲深さ故に被災者の心に共感し、一緒に心を痛ませつつ癒しの糧となる恵みをお与えになると信じています。こうした正統派のクリスチャンの神についての考えは、天皇皇后両陛下をはじめとする皇族の方々、自衛隊員などの救助隊員や支援者の被災者への寄り添いの心に相通ずるものだといえます。

ただ、神は直接眼には見えない存在なので、神の恵みが苦しんでいる人達へ具体的にどのように伝わっているのかということを直接認識することはできません。しかし、例えば、被災者に優しく寄り添う天皇皇后両陛下の姿などを通して、慈悲深い神の癒しの恵みが具体的にどのように働いているかが分かります。

神は、神を信じる人達は勿論、そうでない人達でも、優しい心を持った人全てを、神の救いの手として、彼らの献身的な働きを神の恵みとして、被災者達に寄り添い、癒し、元気付けていきます。つまり、被災地で被災者達に寄り添いながら支援し続けている心優しい人たちは、神の聖霊の秘蹟のように、直接眼には見えない神の、眼に見える代理として、イエスキリストのように同じ生身の涙を流せる人間として、神の慈愛を示しているのです。勿論、天皇皇后両陛下もこうした意味において、両陛下の慈しみ深さ故、慈愛そのものである眼に見えない神の秘蹟的存在であるといえるのです。

四旬節の40日間の修行において、その辛さ故、時々、神は私達のことを忘れてしまったのか、と思うことがあります。神は私達の懺悔を受け入れ、私達の罪を赦してくれるかどうか、不安になることもあります。

被災者の方々にとってこの長い苦しみと将来への不安は、40日間どころではない、比較にならないほど長い”四旬節”であるかも知れません。しかし、それがどんなに長くっても、例え、彼らの四旬節がモーゼの苦渋の地エジプトからカナンにある新天地までの苦難に満ちた砂漠の旅を40年もの間続いたような長い多様な試練となるかも知れません。
ただ、聖書からも言えることは、神への信仰をどんな苦しみにあっても、それがどんなに長くても維持できる人は必ず救われるということです。こうした聖書の理解は、災難を被り、苦しみや悲しみがいつまでも続いても、それを、出エジプト記にあるような心と魂の砂漠の中の旅とみなし、神であれ、何かを信じ、希望を維持できる人は必ず成長しながら乗り越えられるということです。つまり、諦めてはいけないということです。そこに、苦しみや悲しみから逃げずに、忍耐強く向き合いながら生きていく意義もあるのです。
四旬節や聖書でいう悔い改めるということは、ある意味では、諦めへの誘惑と戦い、それに打ち勝ち、希望を捨てないということだといえましょう。

悔い改めるということの他、心、魂、そして、体、を苦行により律することも四旬節においてとても大切なことです。このことについて、先ず、師匠のイエスが実例を示しました。彼は、洗礼の後、聖霊の導きにより、砂漠の中で40日間の断食苦行を行い、それを終えようとしている時に悪魔からの3つの誘惑による攻撃を受けましたが、腹ペコにも拘らず、それらの攻撃を全て見事に跳ね除けることで、それから3年間に渡る救世の為の伝道の旅にでるのです(マタイ、4:1-11)。このイエスの40日間の砂漠での断食苦行は40日間に渡る四旬節の訓練的要素の背景でもあります。

ある意味では、イエスは、砂漠での40日間に渡る断食の苦行によって自分を律していたので、3年間に渡り、伝統し、その締めくくりとして、最後の晩餐の翌日の金曜日に十字架を背負う苦しみに耐え、貼り付けの断末魔の痛みと苦しみにも耐え抜き、イザヤによる預言書の52-53章にある預言通りに、その任務を全うできたのだともいえましょう。イエスの弟子パウロはガラテヤの信徒への手紙5:22-23)で、聖霊の成果の一つに、愛や喜びや忍耐力と一緒に、自分を律する力を挙げています。また、パウロは更に、ヘブライ人への手紙(12:1-13)において、こうして、イエスのように自分を厳しく律することは、自分だけでなく、他人達の喜びや癒しにもつながると記しています。

私達も、聖霊に導かれ、40日間の四旬節の比喩的な砂漠における断食修行に入り、自己を律することで、誘惑や罪、それに、仏教でいう煩悩に密接に関係した自我を克服します。そうすることで、聖霊の成果が律する力、強靭性、愛、喜びなどとなって表れるのです。

四旬節の辛い修行は必ず主イエスキリストの復活、イースター、の無量の喜びへとつながります。聖書にある災難を信仰でもって、悔い改めて乗り越えた所には必ず神の恵みによる褒美が待っています。同じように、どんなに長引こうとも、何かを信じ続け、希望を捨てずに生きていれば必ず神の恵みは実を結びます。

そして、四旬節の悔い改めとは、神の恵みの実とは、必ずしも自分で思っていたものとは限らないということを、謙虚にかつ感謝でもって、森田療法でいうように、あるがままに享受できるということです。つまり、それは、自我を克服するという仏教的なことでもあるわけです。

私達も、四旬節という時期、長い長い四旬節を希望を維持しながら耐え忍ぶ被災者の方々に心を寄せ、共感の中で、神の恵みを享受しあい、悔い改めることで、自我を征し、より神の意思に謙虚に従順となることで、神の恵みの秘蹟的な存在となり、被災者を始め、この世の中で苦しんでいる人たちへの救いの糧となることができます。そして、この修行の努力、波羅蜜多、の成果が、キリストの復活のような喜びとなり、皆で共有できるのです。このことを信じる我ゆえ、正統なキリスト教徒は、どんなに辛くても、寄り添う人達がどんなに辛くても、共に希望を捨てずに乗り越えていけるのです。

どんなに長くても寒くても、冬は春へと続く。どんなに苦しみが多く、長くても、神、あるい、何かを信じ続け、希望を失わない限り、苦しみを乗り越え、その先には必ず何か喜ぶものがある。聖書においても、たとえ、それが神による罪深き民への天罰であっても、神は必ず彼らの悔い改めによる改心を信じ、民を愛するが故、全てを修復へと計らう。被災者へ心を寄せながら、私達は四旬節をこのような真実を鑑みながら、より意義深いものにしたいと思います。

そして、阪神淡路大震災から20年経った今、東日本大震災から4年目の今、被災者の方々は程度の差はあるにせよ、苦しみ、悲しみ続けています。中には、こうした苦しみや悲しみは終わりのないものだろうかと思ったり、もう神や仏なんぞ、と思ったりもする方がいるでしょう。しかし、神や仏を信じつつ、四旬節の修行に励んだり、仏道の六波羅蜜多に精進する人は、被災者の苦しみや悲しみもこうした修行のようなものであると考え、修行を通して被災者に改めて共感のうちに寄り添い、お互いを律することで諦めなどへの誘惑に打ち勝ち、より強靭となり、更に、愛が高まり、喜びも生まれ、希望が更に高まっていくことと信じています。

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本当に神を信じ、正しく聖書を読み親しんでいる正統派のクリスチャンは、決して、苦しんでいる人に対して、聖書云々、神の裁きだとか、天罰だとか、言えるものではありません。災難など、人々に苦しみや悲しみをもたらす事象を罪深き人達への神の裁きだとか天罰だとか決め付けることは、それこそ神への冒涜だと考えられます。なぜならば、彼らは、神を自分の間違った考えや宗教観を神の名を自分の都合のいいように正当化しているだけなのです。こうした為に、苦しみや悲しみの中にある犠牲者や被災者の苦痛が一層辛いものとなり、また、神や宗教に対する希望を失わせ、より悲壮なものとしてしまいます。よって、宗教原理主義者のような考えは、神の名や聖書を悪用して、苦しんでいる人、悲しんでいる人、に理不尽で不必要な罪悪感を植え付けて彼らの魂を破壊しようとする非常に危険なものです。これこそ、まさに、神と神の民の敵である悪魔がクリスチャンの仮面をかぶり、苦しみや悲しみにある人達を神や仏から切り離し、更に深い苦しみと悲しみの底という地獄へと突き放そうとしているものでしょう。私達は、四旬節の修行として、こうした悪魔の危険な思想に翻弄されない強い精神を涵養し、また、宗教の如何にかかわらず、神や仏への信仰があれが信仰、そして、その有無にかかわらず、人間としての良識と人を思いやり人へ寄り添うことができる、いい意味での土居健言う”甘え”といえる、共感、を磨き高めることが大切だと思います。

正統クリスチャンは、カトリックであれプロテスタントであれ、寧ろ、人々の苦しみに対し、眼に見えない神の慈愛の恵みの秘蹟的存在として、眼に見える形で寄り添い、支援していくのです。皇后両陛下、自衛隊員、警察官、消防隊員、そして、無数のボランティア、そして、被災者自身が行ってきたように。たとえ日本はキリスト教国ではないといえ、その象徴でもある天皇皇后両陛下を始めとする、心優しい日本国民のこうした秘蹟的な行動が、日本は神の恩恵を受けている国であることを証明しています。

Monday, February 23, 2015

天照大神とイエスを並行させて四旬節に春を辛抱強く待ち望む北国の日本的カトリック季節感  



シカゴのようないつまでも空が鉛色で鬱陶しくてくそ寒いところでカトリックとして懺悔の四旬節を迎えるとこんな風に考えてしまう。。。。天照大神を想い、イエスを想う。。。そして、自分を内省し、清め、神と和解し、その信頼関係を修復して、スピリチュアルなお天道様が再び現れ、そして、私達のしぶとい罪により生贄として殺され死んだイエスも復活し、本当の春がやってくることへの希望の下、たとえ鉛色の鬱陶しい空の下で懺悔と清めの四旬節の修行を続行できるのです。

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日本では、今年の五穀豊穣を祈念して、宮中や各地の神社では祈年祭が行われ、もう苗の植え付けに備える頃であることを告げ、まだ肌寒いとはいえ、田植えの時がもうそんなに遠くないことを示唆しています。それとともに、各地では梅も満開で、鶯も鳴き始め、三寒四温と言われるような過渡期とはいえ、確かな春の足取りを感じます。南国沖縄ではもう既に桜が咲いていますが。。。

しかしこうした春の気配とは裏腹に、東北、北陸、北海道のような北国、雪国では、まだまだ氷点下の寒い日々が続き、雪も降っており、春の実感は程遠いものです。
ここシカゴでも春の兆候どころか、冬という季節の執拗さを実感させられます。そろそろ、冬という季節にも荷物をたたんで出て行って欲しいのですが、まだまだじぶとく居候したいようで困ります。でないと、春という季節が参上仕り難くなり候なんで。。。

北国シカゴでは、3週間前の大雪の後、先々週も先週もずっと灰色の空で、マイナス15度から20度の間を行き来する雪が散らつく日々でした。こうしたお天道様を拝めない日々がこんなに続くと、天照大神の岩戸隠れを彷彿させられます。そして、こうした季節の中、今年も、カトリック教徒にとって懺悔と清めの修行をすることで神との信頼関係を修復して主の復活に備える為の40日の四旬節となりました。

こうして日照時間の少ない、寒い日々が続くと、天照大神は、私達の日頃の罪深き行いに呆れ返ってしまい、弟のスサノオ尊の暴動の酷さに嘆き悲しんだあげく天岩戸に隠れこんでしまった時のようになってしまったのではないかと。。。そして、もう私達へその太陽の恵みの光をお与えにならないのではないかと。。。だから、いつまでも空が灰色で、寒くて鬱陶しくて。。。と思ったりします。ということは、シカゴの冬のしぶとさは、仏教的に言うと私達の欲望や執着の執拗さそのものを比喩しているものかも知れません。そして、それ故、神からみれば、私達はいつまでも頑固に罪深い、と内省します。

このように、キリスト教やその母体ともいえるユダヤ教にある天地創造の全能の神に記紀の日本神話にある天照大神を投影して四旬節について考えてしまうのは、私が古事記や日本書紀にある日本神話に親しむ日本人であり、かつ、聖書に親しむカトリック教徒でもあるからではないかと思います。

というのは、カトリックにとってこの季節は、自分達の罪深き心を正直に見つめ、自分の罪が何であるか的確に認識し、更に、自分の罪、罪深き心ににより神との信頼関係、そして神ご自身がどのように傷つけられたかをも知ることで、神と和解し、信頼関係を修復する四旬節というであり時期でもあるからです。

シカゴのような所に住んでいると、四旬節の始まる灰の水曜日はまだ寒い真っ只中で、まだまだ鉛色の雪が降る冬空が続き、太陽が見える青空がとても待ち遠しいものとなります。晴れても曇ってても、殆ど一日中、太陽の光の恩恵を感じない真っ暗なアラスカやカナダ北部のような北極に近いところではこのように感じることは尚更でしょう。そして、懺悔の修行に集中する四旬節がもたらす、自分の罪深さに関わる心理的効果もあって、悔い改めることでお天道様がまた姿を現し、鉛色の空の下の冷え切った私達の世界を青空の下で暖めてくれることを切に切に願うものです。そして、このお天道様の再来による暖かい光の恵みを請う心は、カトリック教徒がそれまでの罪深さを悔い改め、神の赦しと、再び神の温かい恵みを謙虚に請う心へと投影されます。

新約聖書は、神の御子であるが故、神であるキリスト、イエス、はその慈愛故に私達の罪を、私達の代わりに背負い、私達を罪の束縛から解放し救われるようにする為に、神の赦しの生贄として十字架に貼り付けられたことを教えています。また、イエスは、十字架での死後、三日目に聖霊の力で復活することで、私達も罪深くても彼を信じ悔い改めれば救われることを証明しました。

このことに基付き、カトリックの教えでは、イエスキリストの復活を祝うイースターの前40日間を四旬節と言う、イエスが私達の罪の為に生贄となった意義を深く想い起しつつ悔い改めをする期間としています。こうすることで私達も神と和解し、私達の罪によって傷ついた神との信頼関係を修復できるわけです。しかし、私達の悔い改めることなく、罪深いまま神の背き続けていると、旧約聖書にある預言書からの教訓にあるように、また、新約聖書の最後にある黙示録にあるように、神の審判が下る時にはもう神との信頼関係を修復することが手遅れとなりかねません。万一、そうなれば、もう光の恩恵のない永遠の暗闇へと葬られてしまうことになります。
つまり、四旬節とは、誘惑に負けやすく罪深い私達が素直に私達自身を内省し、悔い改め、神の慈悲の恵みを請い、赦しを請い、和解し、神との信頼関係を修復、維持することで、神の慈愛の光の中でいつまでもいられるように律する期間です。こうすることで、イエスキリストの復活の意義がより深く実感でき喜べるようになるわけです。

とはいえ、四旬節とは典礼カレンダーB年の第一主日のマルコによる福音書1:12-15からの朗読にあるように、イエスが洗礼後に聖霊の導きにより砂漠の中で40日にわたる断食の厳しい修行をすることで福音の伝道と癒しの活動に備えたという事実に照らし合わせて、私達も罪深さや誘惑への弱さを克服する為にあたかもイエスがいた砂漠にいるように自分自身を律するように修行するわけで、長引く冬の厳しさに身と心を引き締めて耐えながら自己を鍛えるようなものです。

日照時間の少ないシカゴや東北などの北国、雪国にいると、あたかも高天原を治める天照大神が海原を治める弟のスサノオ尊の乱暴さに激怒して天岩戸に引きこもり、世の中が光を失い真っ暗になってしまい、命が消えてしまったかのような錯覚を覚えないわけでもありません。しかも、こうした環境におかれると、まだまが先が長い春の到来を辛抱強く、寒さと暗い空の鬱陶しさに耐えながら待つことが要求されます。これは先述の、B年における四旬節における第一主日のマルコによる福音書からの朗読において自分を砂漠の中で断食しながら耐え続けながらこれからの救世の為の大仕事に備えるイエスの忍耐強さに投影しながら、私達自身の四旬節における忍耐を確かなものとできます。

天照大神を全能の神に投影することで得られる日本神話と聖書を対照させたこうした考えは、英語で日曜日をSunday, つまり、太陽の日、ということと、スペイン語では日曜日をDomingo, つまり、主(神)の日ということを対照させればすんなり受け入れられることかと思います。英語でSundayというと天照大神、スペイン語でDomingoというと聖書にある三位一体の全能の神。日本神話と聖書の双方を読む日本人カトリッククリスチャンにとって、北国、雪国の寒い鉛色の空の日々に特徴付けられる四旬節は、私達の罪を贖う為の具体的な伝道を始める前にイエスが砂漠で40日間断食の修行をしたことの他に、天照大神がスサノオ尊の暴動への悲嘆から天岩戸に隠れこもってしまったことをも照らし合わせながら、自省、内省し、懺悔行い、神との和解、神との信頼関係を象徴する春の到来を忍耐で待ち望むのです。

三位一体において御子イエスは天にいる全能の父なる神の“son”であり、息子を意味するsonという英語の単語は太陽を意味するsunという英語と同じ発音であることから掛詞にする、ちょっとした語呂合わせを楽しみながら、四旬節を天照大神を御子イエスに投影し、天照大神の岩戸隠れとイエスの砂漠に潜みながら修行していたことを並行させながら、私達も、日頃入り浸っている欲望や誘惑の俗界から距離を置いて、ある意味では懺悔の為の岩戸の向こう、そして、またある意味では、砂漠のような厳しいところで欲望や誘惑がもたらした罪によって弛んだ魂を律して、四旬節を意義深く過ごして、魂、心、体を清め、クリスチャンにとっての本当の”日の出“かつ”春“である主の復活に備えたいと思います。